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惨劇なり〃天一号作戦〃

 十八年九月二十五日、兵役のため大学を繰り上げ卒業となった。甲種合格し戦車兵となったが、憧れもあり海軍を志願したいと上申したところ認められ、海軍主計見習尉官の試験を受けた。試験は得意とする簿記、会計、原価計算であったことが幸いし、上位の成績で合格することができた。

前後するが、十八年二月に下宿先の家主の長女と結婚した。それが妻・美代子である。
海軍に入隊したときは、七百八人のうち既婚者は二人だけで、その一人が私だった。もう一人はのちにオリンピックにテニス競技の選手として出場した隈丸次郎氏である。

 十九年三月、海軍主計中尉に任官し駆逐艦「冬月」に乗り組んだ。二十年三月、海軍主計大尉に任官。その後、「冬月」乗り組みの主計科士官(主計長)として伊号転送作戦、呂号転送作戦、島方面転送作戦、天一号作戦に従事した。

 天一号作戦ー日本海軍最後の海戦・二十年四月六日、戦艦「大和」、巡洋艦「矢矧」、対空駆逐艦「冬月」「涼月」、駆逐艦「朝霜」「初霜」「霞」「磯風」「浜風」「雪風」の当時日本で動ける十艦が沖縄へ向けて海上特攻を行った。

このときの戦いの壮絶さは、『玉砕戦と特別攻撃隊』(新人物往来社刊)のなかの「駆逐艦『冬月』、『大和特攻』に死せずー武田威雄主計大尉、血染めの奮戦」に紹介されている。その一部を、説明を加えながら抜粋させてきただく。

  七日十二時三十二分、海戦が始まった。
「戦闘が始まると、主計長たる武田大尉は、艦橋で戦闘記録をとるのが任務である。第四十一駆逐隊司令・吉田正義大佐、駆逐艦長・山名寛雄中佐、航海長・中田隆保中尉らが居並ぶ少し後ろに立って、戦闘の推移を見守っていた」

  「つぎつぎと来襲する敵戦闘機の機銃掃射が『冬月』の艦橋をも直撃した。機銃弾は武田大尉のすぐ目の前で、航海長・中田中尉の両手首をあっというまに吹き飛ばした。血しぶきが武田大尉の軍服を赤く染めた。

  一瞬の出来事だった。武田大尉は『不覚にも膝がガクガクして』金縛りにあったように動けなくなってしまった」

  私は気を取り直し中田航海長を抱きかかえ、応急治療室へ運んだ。ところがそこはすでに手や足を失った負傷者たちでいっぱい、辺り一面が血の海と化していた。

 「過酷な戦闘の実態をまのあたりにした武田大尉は、気持ちを落ちつけようとして、しばし、艦長室前の暗闇にたたずんだ。大型爆弾が至近距離で炸裂し、その爆風で艦側がメリメリッと破れるような大きな音をたてた。驚いてその場を離れた。何もしないよりは、少しでも体を動かして戦闘任務についたほうが、気が紛れる。そう思った武田大尉は、撃ちおわった一○センチ高角砲の空薬莢を海に投棄する作業を手伝った。

 しかし、そこでも敵機の銃撃を受け、機銃弾が空薬莢の山に飛び込んでカランカランと音をたてて弾ける。危険きわまりない。

 さきほどの艦橋での出来事といい、今度といい、ほんの少し機銃弾がそれていたら自分に命中していたはずだ。当然のことながらすでに艦の中で安全な場所などどこにもなかった」「『冬月』にはいくつかの幸運が重なった。戦闘詳報によると、十二時四十八分に、『冬月、ロケット爆弾二発命中』『前部発令所二罐室盲弾』と記されている。

ロケット爆弾は比較的遠距離からの射撃でも命中確度が高かったが、『冬月』に命中した二発は、いずれも不発弾であった。一発は、艦橋下の甲板を貫いて発令所に突っ込み、二名を戦死させ、火薬庫の入ロまでころがっていった。そして、二発目は罐室に命中した。

  もし一発でも爆発していたら『冬月』は致命的ともいえる大被害を被っていたに違いない。
  戦闘詳報十三時五分には、『魚雷一冬月艦底通過』とある。これは吃水三メートル下を魚雷が通過した記録である。(中略)まともに命中していたら『冬月』は大破または沈没していたであろう」

 奇跡としか言いようがない。艦内には冬月神社が設けられていたが、そのご加護だと思っている。

  「十四時十七分『大和』は大音響とともに大爆発した」
  私は、大爆発の際、乗組員が『大和』の破片とともに上空高く吹き上げられ、重油が広がる海面に四方へ次々に落下していくのを、五○○メートルばかり離れたところから見つめていた。このときほど、戦争の非常さを痛感したことはない。永遠に忘れられない。

  結局、「大和」をはじめ「矢矧」「朝霧」「霞」「磯風」「浜風」が海の藻屑と消えていった。
 「武田大尉は、このような状況でまだ戦わなければならないのかと思ったが、すぐその後、連合艦隊司令部から『作戦中止』の命令が届き、『冬月』は佐世保に向かった」

 「戦死十二名、戦傷十二名の犠牲者を出した『冬月』関係者は、のち『冬月会』を組織して、毎年四月七日、靖国神社で慰霊祭を行っている」

  天一号作戦を終え昭和二十年五月一日、私は呉海軍経理部部員となった。海軍主計見習尉官となってから復員するまでに交流のあった方のなかには、短期現役十期同期の土田國保(元警視総監)、池中弘(元札幌国税局長)、岸昌(元大阪府知事)、見坊力男(元札幌陸運局長)、関根敏文(元道警本部長)、田原修(元日本銀行札幌支店長)、宮澤弘(前参院議員:宮澤喜一元総理の弟)、(以下、故人)渥美健夫(元鹿島建設会長)、森下泰(元森下仁丹社長)、山下元利(元防衛庁長官)、石橋幹一郎(元ブリヂストン会長)、久保卓也(元防衛局長)などの顔ぶれがある。この中には現在もお元気で文通をさせていただいている方がいる。ーー敬称略、( )内はのちの肩書き。

 八月六日、広島へ原子爆弾が降下された。呉海軍経理部は高台にありそこから、またも閃光と爆発音とその惨状を見聞することになった。

そして、数え切れないほどの惨劇だけを刻んで終戦を迎えた。

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